京都「相国寺(しょうこくじ)」の塔頭(たっちゅう)、「鹿苑寺(ろくおんじ)」の金箔を張り巡らせた「舎利殿」は、「金閣」とも言いますので、「鹿苑寺」を通称「金閣寺」と言っています。室町幕府第3代将軍「足利義満(1358~1408)」が隠居・出家し、応永4年(1397)に「北山別荘」として建てたのがこの「舎利殿」で、亡くなるまでここで政務を執りました。そして、没後「鹿苑寺」となったのです。建立以来、一度も焼失することなく「大修理」を繰り返し、昭和4年(1929)には「国宝」に指定されました。ところが、昭和25年(1950)7月2日未明に、金閣寺(舎利殿)は放火により全焼してしまいました。放火したのは、当時21歳の金閣寺の学僧でした。舞鶴出身の彼は、京都に出て「大谷大学」で仏教を学ぶかたわら、金閣寺の住み込み修行僧として研鑽に励んでいました。放火後、裏山に逃げ込み割腹自殺を図るも死にきれず、逮捕されます。放火の理由は、幼少から重度の「吃音(きつおん)」で周囲の無理解に絶望して厭世的に成り、その境遇に対して「美しすぎる金閣寺」に嫉妬したと、西陣署の取り調べに供述しています。焼失した金閣寺はすぐに再建計画が始動します。幸い、明治37年(1904)からの解体修理の際に詳細な図面や文書、写真が残されていて、3年の歳月を掛けて、昭和30年(1955)10月10日に建立当初の姿に再建されました。そして、平成6年(1994)には、「古都京都の文化財」のひとつとして「世界文化遺産」に登録されました。ただ、復元「金閣寺」は、残念ながら「国宝」への復帰はなり得ませんでした。「国宝」は、建物が全焼した場合「指定解除」となってしまうのだそうです。(2025.7/1) |