慶応4年(明治元年/1868)4月25日、中仙道・板橋宿(現・東京都板橋区本町)近くの板橋刑場にて、新撰組局長「近藤勇(こんどういさみ)」が斬首の刑に処せられました。彼は、多摩郡上石原村(現・調布市)の農家に生まれましたが、武士への憧れが強く、剣道「天然理心流」を学びました。そして、道場で若くして頭角を現し、宗家の養子に迎え入れられ、晴れて武士の仲間入りを果たしました。時は幕末の動乱期で、幕府から京の治安維持のための武士集団が募集されて応募。京都守護職「松平容保(かたもり・会津藩主)傘下の「新撰組局長」として、夢にまで見た武士としての活躍の場を得ました。そして、京で暗躍する尊皇攘夷派の浪士を震え上がらせる取り締まりで、一躍その名を轟かせたのです。しかし、薩長軍が慶応4年(1868)1月に「鳥羽伏見の戦い」に勝利すると「官軍」となり、敗れた幕府は「朝敵」に成り下がり、新撰組も官軍から追われる身となります。そして、板垣退助率いる官軍と甲州勝沼(現・山梨県勝沼市)での戦いを最後に、散り散りに敗走することになります。やがて、下総・流山(現・千葉県流山市)の商家に潜んでいた近藤は、官軍の包囲網に最早これまでと4月3日に投降しました。そして、板橋刑場にて近藤勇の首は一刀の元に両断されたのです。享年35。胴体は近藤の兄に下げ渡され、一方の首は京へと送られ、三条川原で「さらし首」となりました。しかし、その首はまもなく何者かに盗まれてしまうのです。近藤の首塚なるものが各所にありますが、ただの供養塚で、現在に至るまで近藤勇の首は見つかっていないのです。(2025.4/15) |