天正10年(1582)5月17日の「羽柴秀吉」からの早馬で「毛利攻め」を決意した信長は、その遠征に先立って5月29日に38点の「大名物(おおめいぶつ)茶器」と30人ほどの供廻りだけで急遽上洛して「本能寺」へ入りました。そして6月1日に、公家や博多の豪商、僧侶などを招いて茶会を催します。茶会は、大名物茶器を持参した信長への追従(ついしょう)に終始し、信長はひとり悦に入っていました。夕刻からは酒宴と化してさらに盛り上がります。やがて、夜も更けて酒宴もお開きとなりますが、その座の一角では、招待客のひとり、京「寂光寺」の塔頭(たっちゅう)・本因坊(ほんいんぼう)の僧侶「算砂(さんさ)」と、「本能寺」僧侶「鹿塩利賢(かしおりけん)」が囲碁の真っ最中でした。算砂は、信長が囲碁の師と仰いでいるほどの名人です。信長も静かに見守りますが、この夜の対局は中々勝負がつかない局面となってしまいます。結局、日をまたぐ頃となったのでその夜は「勝負なし」となって、ふたりとも帰宅し、信長も眠りに就きました。そのわずか数時間後の6月2日の未明に、明智光秀による「本能寺の変」が勃発し、信長は自刃し齢(よわい)49で無念の最期を遂げました。さて、この「寂光寺・本因坊」の僧侶「算砂」は、その後、秀吉、家康の囲碁の師ともなって、囲碁「本因坊家」の開祖、一世「本因坊算砂」となりました。そして、その子孫が代々「本因坊」を世襲し、囲碁、将棋の「棋界(きかい)」で筆頭の地位となりました。明治以後も世襲は続き、昭和13年(1938)に、二十一世「本因坊秀哉」が引退した際、その名跡を「日本棋院」に譲渡し、「家元制」から「実力制」に移行することとなりました。そして、昭和16年(1941)に「本因坊戦」に優勝した「関山利一六段」を「第1期本因坊」とし、現在は27歳の「一力遼(いちりきりょう)九段」が「第79期本因坊」の地位にあります。(2025.6/1) |